猫の抜け毛ボール

いらないものを丸めて遊ぶ

何かを無性に書きたいけど

何が書きたいのかわからない、そんな凡人の悲しい性ゆえ、無鉄砲にはてなブログをひらいた。

何かを書こうとすると大体、それに対する反応を無意識にサーチしてしまう傾向が私の頭にはある。凡人コミュ障陰キャの悲しい性だな。自分らしくあるということができない。いやいや、努力不足なのである。単にな。

さいころから妄想癖はあったけどそれを具現化することは大の苦手だった。絵も文も書けと言われると全く筆が動かない。そんな私を救済したのは二次創作だった。でも、ほめられたい願望はあるくせに努力は人一倍嫌いだから、絵ではなくて文に逃げた。文はもともと得意だったのだ。読むのが。だからそれなりに書けもした。この辺は苦手な人からすればぜいたくな悩みなんだろうな。

ところが、サイトを作り作品を載せるようになると、界隈での人間関係の輪に組み込まれる(組み込んでもらえる)はめになった。当初は仲間ができたと喜んでいた私だったがすぐにそれが不快になっていった。なんせ他人の解釈を受け入れられないのである。解釈違い同士でつるむことが無駄に思えて仕方なかった。これは、今思えば私に全然余裕がなかったんだな。それだけ真剣だったともいえるけど。若さゆえだった。

逆に今、それから10年経って、人とはうまくやっていけるようになったけどそれと引き換えに(二次)創作に対する情熱が失われてるような・・・。

まず他人の作品を見ても好悪の激しい感情が芽生えなくなったな。これは、若いころはすごく望んでいたことなんだけど・・・。まあ普通に考えればそう鈍くなるわな。だって自分がこうしたいって強く思ってるからこそ他人の解釈に腹が立つんだもん。

書いてて、すべてが言い訳のような気がしてきた。

話が少し戻るけど、二次創作で適当に欲望を消化していた私は、一次創作というものからずっと逃げ続けている、いまだに。

書きたいものがおりてくるんでしょ?って思っている、いまだに!

いい加減にしろとも思っている。ずっとな。

うん・・・でも、日記を書くのは上手になった。上手っていうのはちゃんと自分の気持ちをかけるようになった。前よりはね。これはここ4,5年の成果だね。

って良いところだけを見て進むのは大人にはきちぃよ。

好きな作家は夏目漱石ドストエフスキーでこれを書くとこの二人はなんにも悪くないのに私のプライドの高さだけがみんなから見える気がしてとっても恥ずかしい。